Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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原宿





【クリティカル・ラビリンス――「批判」と「抵抗」を巡る試論】
                           
「批判」は、その可能性と現実性に関して、今や危機的な問いに晒されている、と仮定
してみよう。すなわち、「そもそも、そんなものが可能なのか? もし可能だとしても、そ
れは一体どこにあるんだ?」という問いである。なるほど、迂闊な問いだ。確かに、ここ
で「危機的などという感傷は、批判と危機がもともと深い絆で結ばれていることへの無知
の表明に過ぎない」と批判することは、そう難しくない。だが、そう語るだけでは足りな
い。ここで問題となるのは、「批判の危機」というより、むしろ「批判と危機の絆の消滅」
という「危機」なのである。
私は、この批判と危機との接点にこそ、探求の照準を合わせたい。我々の心と身体の迷
宮という隘路において。そこに浮かび上がるのは、我々人間がいつしか忘却した、「抵抗」
の可能性と現実性である。私は、この作業が、「問題提起・操作術」としての『自由と因果
性を巡る二律背反(アンチノミー)』への手掛かりになることを願っている。
1.導入:「批判」と「抵抗」の接点へと向かって
言うまでもなく、ミシェル・フーコーは、すでにあまりにも知られた名前である。かつ
てのざわめきは彼方へと過ぎ去り、もう最後通牒が届けられたのだろうか? だが、彼が
提起し、操作した問題系は、依然として我々の思索を要求する課題であり続けている。私
の見るところ、彼はこの課題を固有なカントの読み換え作業を通じて――むろんその場面
がすべてではないのだが――『言葉と物』において設定した。この課題は、なお無際限に
開かれている。そこで私は、カントとフーコーの接点に位置する問題系を『言葉と物』第
二部、9章の記述から取り出し、以後の探求に対する序説にしたい。
デカルトの「我思う」(Cogito)を一つの過程として捉えるなら、それは、カントにおい
ては、「統覚の総合的統一」と呼ばれる。さらに、この過程の最終的な根拠は、《超越論的
統覚》と呼ばれる。「統覚」(Apperzeption)は、もしそれに初めて出くわしたなら、例えば、
「統合感覚」の省略形のように見えるかもしれない。だが、「超越論的」(transzendental)
という修飾が付いたものは何であれ、単なる経験的な感覚ではない。よって、この「統覚」
は、差し当たって、「我の意識が純化された何か=X」といった「思考のイメージ」(ドゥ
ルーズ『差異と反復』)で捉えられることだろう。
だが、「過程」という言葉は、やはり、単に経験的なものを指示しているのではないか?
「過程」としてこの「超越論的統覚」を捉えることは、最初から「超越論的方法」のル―
ル違反に問われるのではないか? とはいえ、この「超越論的統覚」は、決して時空を「超
越した」(transzendent) 何か=Xなのではない。それこそ、ルール違反であろう。それは、
時間と空間を総合し、統一するという一つの「働き(Aktus)」である。それによって、時間
と空間は同時に総合され、時空という統一体へともたらされる。
この過程は、すべての私にとっての、あるいは〈我々〉にとっての時間のあり方(時間
性)と空間のあり方(空間性)を一つの固有な様態へともたらす。この働きは、それ自身、
時間・空間性の一つの固有な様態なのである。フーコーは、カントによって遂行されたこ
の変換に照準を合わせる。時間・空間性に関して未規定であったデカルトのコギトは、一
つの固有な「形式」へともたらされた。デカルトのコギトは、確かに、変貌を強いられた
のだ。
「我思う」という働きとしての時間・空間的総合の様態には、さまざまなバリエーショ
ンがあるはずだ。差し当たって、経験という場がこの多様性に関わる、と言える。だが、
問題は、この謎めいた「経験」という場なのである。カントに従って、経験的な場と超越
論的な場は違うのだと言い張っても、それだけでは、あの変換の内実への手掛かりは得ら
れない。そこで、カントがもたらしたコギトの変換を、時間的総合と空間的総合との関係
として考えてみよう。もし時間・空間的総合の様態にさまざまなバリエーションがあるの
なら、それは時間的総合と空間的総合との「関係」が何らかのゆらぎに晒されていて、そ
の揺らぎの過程において両者の「関係」が変換するということだろう。ここで問われるの
は、ある種の「距離」あるいは「偏差/ずれ」を内包した、時間的総合と空間的総合との
《狭間》というレベルである。言わば両者は、「自己の経験」という迷宮で互いに闘う相手
なのだ。互いに互いを追跡し、攻撃と防御、強制と抵抗を際限なく反復する。自己経験の
場としてのコギトには、時間的総合と空間的総合との絶え間ない闘争が内在している。
 フーコーは、次のように言う。
「近代のコギトにおいて問題となるのは、(……)自己に対して現前する思考と、思考の内
で〈思考であらざるもの〉に根付いているものとを、分離すると同時に結び付ける距離を、
その最大の規模において価値づけることである」(注1)
この「距離」こそ、ある種の「偏差/ずれ」を内包した、時間的総合と空間的総合との
《狭間》というレベルであろう。コギトと〈思考されぬもの〉との闘いが、そこにおいて
開始/反復される。「カント」という固有名(を持った「何か/誰か?」)が、そこへと召
喚される。すなわち、「経験的・超越論的二重体 doublet empirico-transcendan
tal」(p.329.)としての「人間」の誕生。それは、この「距離/偏差」の発見と同時的なも
のである。「人間と〈思考されぬもの〉は、考古学的水準においては、同時期のもの」(p.337.)
であり、この〈思考されぬもの〉は、「人間との関係において《他者》」(ibid.)だからであ
る。
こうして、近代の思考の対象は、〈思考されぬもの〉となる。思考それ自身の運動が距離
/偏差を内在させるものとなった今、「本質的なことは、思考がそれ自身にとって、その作
業の厚みにおいて、知であると同時に、思考が知っているものの変様(modification)であり、
反省であると同時に、思考が反省するものの存在様態の変換(transformation)であるとい
うことであろう。(……)近代の思考は、人間にとっての《他者》が、人間と《同一なもの》
となるはずのあの方向へと進んでいる」(p.338f.) 
近代の思考は、この《同一なもの》を目指す。《同一なもの》――それは、何らの裂け目
も亀裂も持たない、それ自体で充足した《自己完結的な時間・空間性》である。我々は、
時間性と空間性との複合的多様体として、歴史性への新たな手掛かりを発見したはずだっ
た。しかし、我々は、その多様性を陰蔽して、その彼方――《起源》を目指すことになる。
だが、フーコーによれば、近代の思考が目指す自己完結的な歴史性の《起源》は、「原初
的な折り目(pli premier)」(p.340.)と呼ばれるものから派生する。ある根源的・絶対的な起
源から「歴史」は開始されるのではない。我々は自己完結的な歴史性を、「規定されたもの」
として認識することはできないのだ。
「クロノロジー的(年代記的)時間継起の展開が一つの表(tableau)の内部に宿り、そこ
で遍歴するに過ぎないとするような思考において、出発点は現実の時間の外部と同時にそ
の内部に存在する。すなわち、その出発点こそ、それによってあらゆる出来事が生起し得
る、あの原初的な折り目に他ならない」(ibid.)
「表(tableau)」とは、裂け目や亀裂が陰蔽された「世界像」――あるいは、それが描か
れる「カンヴァス」――だと言ってよい。我々は、それを「そもそもの始めから純粋で等
質な同時性の空間であったもの」として錯覚していた。だが、それは、ある原初的な「折
り目」から派生する。それは、きわめて固有な時間性と空間性とのセットとして再発見さ
れるのである。すなわち、時間系列と空間系列の相互的な変換が構造的な不変性を保つ(対
称性を持つ)という固有な「時空」として。だが、特異な時間・空間性の効果であるこの
「時空」は、再び「最初のもの」として錯覚される。すなわち、我々人間の経験が現実化
する過程そのもの――「時空」そのものの生成過程――は、経験の主体/我々人間に対し
ては現前し得ないものとされた。だがカントは、この過程を《形式》として初めて問題化
したのだ。
「人間とは、すでに造られている歴史性と結びついて初めて見い出された」(p.341.)もの
である。我々人間は、ある固有な「折り目」の所産として、その都度の自己経験の現実化
の過程において構成される。その構成過程において、一切の固有に規定された時空の彼方
に、逆に人間を絶えず分散させる力が発見される。だが「このような力は、人間にとって
外部にあるものではない。(……)その力こそ、人間固有の存在の力なのである」
(p.346.) この人間固有の存在の力が位置する「経験的・超越論的二重化(redoublement
empirico-transcendantal)」(p.347.) の過程に関して、フーコーは次のように言う。
「同一なものを隔たりという形態のもとで与える反復こそ、おそらく、時間の発見が性
急にもそれに帰せられている、あの近代の思考の核心にあるものに違いない」(p.351.)  
思考の経験そのものの核心に、この反復の運動がさまざまな様態において組み込まれてい
るのである。
「事実、もう少し注意して見るならば、古典主義時代の思考が、物を表の形に空間化す
る可能性を、自己から出発して自己を想起し二重化し、連続的時間から出発して同時性を
構成する、あの表象の純粋な継起の特性に関係づけていたことに気づくはずだ。時間が空
間を基礎づけていたのである。近代の思考においては、物の歴史と人間に固有の歴史性と
の基礎に現れるのは、同一なものをうがつ距離であり、それをそれ自身の二つの末端で分
散させ集合させる偏差である。近代の思考に対し常に時間を思考することを可能にするの
は――時間を継起として認識し、それを完成、起源、あるいは回帰として自らに約束する
ことを可能にするのは――この深い空間性なのである」(p.351.)
この距離/偏差は、あらゆる思考の現実化の過程としての、時間性と空間性との複合的
多様体であり、その都度一定の変換を思考の経験としてもたらすものなのである。

フーコーは、彼自身の近代性の解読を要約するにあたり、先の《経験的・超越論的二重
化》という表現を、「経験的・批判的二重化」(p.352.)と言い換える。この二重化は、カン
トによる《人間とは何か》という「究極の問い」(ibid.) を端緒としてあらわになったもの
だからだ。「経験的・批判的二重化」とは、自己経験に対する批判的問いかけによる《折り
目》の発見であると言えよう。だが、フーコーによれば、「このような折り目のなかで、哲
学は新しい眠りを、《独断論》のそれではなく、《人間学》の眠りを眠ることになる」(ibid.) 
フーコーによれば、「《人間学》は、カントから我々まで、哲学的思考を律し導いてきた基
本的配置をおそらくは構成する。(……)しかしそれは、我々がそこに、それを可能にした
開かれた空間の忘却と、次なる思考に執拗に対立する頑固な障害とを同時に認め、批判的
様態に基づいてそれらを告発し始めたがゆえに、我々の眼の前で分解しつつある」(p.353.)。
 従って、最後に問題となるのは、このような《批判的様態》による思考の経験の実践と
いう課題であろう。すなわち、批判の作業の可能性および現実性への問いかけがここで設
定される。そしてこの問いは、《思考の自由》への問いへと我々を導く。つまり、思考の経
験の成立過程としての自己経験の過程において、ある固有な《批判的様態》が形成され、
しかもそれが同時に自由な自己形成過程でもあり得る、ということが課題となる。この思
考の経験は、時間的総合と空間的総合との《狭間》で、両者が互いに互いを追跡し、攻撃
と防御、強制と抵抗を際限なく反復する闘争の場として浮上してくる。それはあたかも、
ピカソが愛した、マドリッドの、そしてアルルの闘牛場のようだ。だが、その背後には、
『ゲルニカ』を焼き払う爆撃の閃光がきらめいている。フーコーは、こうした事態を、「権
力と抵抗との互いに不可分な反復」として探究する。こうして、生存の経験そのものであ
る反復のいくつかのタイプが主題化される。ここで更に、この反復における権力と抵抗と
の距離/偏差という局面とともに、それら両者の「互換性」という局面が指摘され得る。
次のように問うことが出来よう。フーコーの言う人間学的要請へと依拠することのないど
のような権力と抵抗との反復が望ましいのか。そしてその反復を実現する生の様態は/技
法はいかなるものであるのか、と。
こうして、《批判》と《自由》への問いが、新たな生/反復の探究という作業、すなわち、
ある特異な自己経験の形成過程それ自身として反復されることになる。つまり、この今な
お無際限に開かれた問いの形成・反復という作業は、それを引き受ける者すべてが、自ら
の経験の歴史性の形成過程として実践していくべきものなのである。自己完結的な歴史性
の解体と新たな生の歴史性の構築とを目指す自由な造型行為こそ、我々の課題としてフー
コーが提示しているものだからだ。  

 我々は、以上の考察をカントとフーコーとの接点を成す問題系の展開作業として行って
きた。以後我々は、カントにおける《批判》の形成を探究しなければならない。現在、歴
史への問いがかくも切迫した/危機的なものとなっているのは、まさにカントによる経験
の形而上学の根底的批判とその新たな構築を臨界点(the critical point)としているように
思われるからである。すなわち、カントの独創とさえ言える一つの問いが、我々を再び迷
宮へと誘っている。
――《我々人間》とは、一体誰なのか? 
今やこの問いに、可能な限り、基礎(論)的なレベルにおいて、接近すべき時である。

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